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更新日付:2020年2月17日 都市計画課
ふるさと眺望点(令和元年度追加指定)
1 弘前市
■□■大森勝山遺跡■□■
大森勝山遺跡は、標高143mから145mの舌状丘陵上に立地しており、遺跡から北東側眼下には津軽平野を、南西側には岩木山の全景を眺望できます。
また、遺跡は縄文時代の定住成熟期後半(紀元前1,000年頃)に位置づけられ、環状列石は墓地であるとともに祭祀・儀礼の空間でもありました。周辺に環状列石が見られないことから、広域にわたる複数の集落によって構築、維持、管理された祭祀場と考えられています。
大森勝山遺跡は、標高143mから145mの舌状丘陵上に立地しており、遺跡から北東側眼下には津軽平野を、南西側には岩木山の全景を眺望できます。
また、遺跡は縄文時代の定住成熟期後半(紀元前1,000年頃)に位置づけられ、環状列石は墓地であるとともに祭祀・儀礼の空間でもありました。周辺に環状列石が見られないことから、広域にわたる複数の集落によって構築、維持、管理された祭祀場と考えられています。
2 つがる市
■□■亀ヶ岡石器時代遺跡■□■
亀ヶ岡石器時代遺跡は、岩木川左岸の標高7~18m程度の丘陵上に立地しており、海進期に形成された内湾である古十三湖の汽水域に面しています。
遺跡は縄文時代の定住成熟期後半(紀元前1,000年頃~紀元前400年頃)に位置付けられ、土坑墓が多数群集していることから周辺の小規模集落とともに構築、維持、管理された大規模な共同墓地と考えられています。
また、国指定重要文化財に指定されている大型土偶(遮光器土偶)が出土しています。
亀ヶ岡石器時代遺跡は、岩木川左岸の標高7~18m程度の丘陵上に立地しており、海進期に形成された内湾である古十三湖の汽水域に面しています。
遺跡は縄文時代の定住成熟期後半(紀元前1,000年頃~紀元前400年頃)に位置付けられ、土坑墓が多数群集していることから周辺の小規模集落とともに構築、維持、管理された大規模な共同墓地と考えられています。
また、国指定重要文化財に指定されている大型土偶(遮光器土偶)が出土しています。
3 つがる市
■□■田小屋野遺跡■□■
田小屋野貝塚は、岩木川左岸の標高10m~15mの丘陵平坦面から緩斜面上に立地しており、海進期に形成された内湾である古十三湖に面しています。
遺跡は縄文時代の定住発展期前半(紀元前4,000年~紀元前2,000年頃)に位置付けられ、竪穴建物、墓、貝塚、捨て場などが分離して配置されています。
また、貝塚は汽水域に棲息するヤマトシジミやイシガイなどを主体として丘陵上に点在しており、貝塚や捨て場からは、クジラやイルカなど大型ほ乳類の骨で作った骨角器なども発見されています。
田小屋野貝塚は、岩木川左岸の標高10m~15mの丘陵平坦面から緩斜面上に立地しており、海進期に形成された内湾である古十三湖に面しています。
遺跡は縄文時代の定住発展期前半(紀元前4,000年~紀元前2,000年頃)に位置付けられ、竪穴建物、墓、貝塚、捨て場などが分離して配置されています。
また、貝塚は汽水域に棲息するヤマトシジミやイシガイなどを主体として丘陵上に点在しており、貝塚や捨て場からは、クジラやイルカなど大型ほ乳類の骨で作った骨角器なども発見されています。
4 外ヶ浜町
■□■大平山元遺跡■□■
大平山元遺跡は、蟹田川左岸の標高26mの河岸段丘上に立地しています。
遺跡は縄文時代の定住開始期前半(紀元前13,000年頃)に位置付けられ、移動に適さない土器を使用し、居住地を形成していたことから定住の開始を告げるものと考えられている。
また、出土した土器の測定結果である紀元前13,000年頃の年代値は日本最古のものです。
大平山元遺跡は、蟹田川左岸の標高26mの河岸段丘上に立地しています。
遺跡は縄文時代の定住開始期前半(紀元前13,000年頃)に位置付けられ、移動に適さない土器を使用し、居住地を形成していたことから定住の開始を告げるものと考えられている。
また、出土した土器の測定結果である紀元前13,000年頃の年代値は日本最古のものです。
5 七戸町
■□■二ツ森貝塚■□■
二ツ森貝塚は、太平洋岸に続く小川原湖西岸の標高30mの段丘上に立地しており、海進期に形成された湖沼地帯の最奥部で漁労や貝の採取が行われていました。
遺跡は縄文時代の定住発展期前半(紀元前5,000年~紀元前3,000年頃)に位置付けられ、集落は段丘の東側を中心に平坦部は居住域、その外側に墓域が配置されています。
また、貝塚は丘陵北斜面および南斜面に形成され、下層は海水性、上層は汽水性の貝塚が見られることから、海進、海退による環境変化が反映されています。
二ツ森貝塚は、太平洋岸に続く小川原湖西岸の標高30mの段丘上に立地しており、海進期に形成された湖沼地帯の最奥部で漁労や貝の採取が行われていました。
遺跡は縄文時代の定住発展期前半(紀元前5,000年~紀元前3,000年頃)に位置付けられ、集落は段丘の東側を中心に平坦部は居住域、その外側に墓域が配置されています。
また、貝塚は丘陵北斜面および南斜面に形成され、下層は海水性、上層は汽水性の貝塚が見られることから、海進、海退による環境変化が反映されています。