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更新日付:2011年8月4日 西北地域県民局地域整備部鰺ケ沢道路河川事業所

西津軽の湊と街道

  • 明治初期の深浦港画
    明治初期の深浦港(蓑虫山人画)
    青森市・工藤隆一氏蔵
 当管内が接する日本海の沖合は、中世の昔から蝦夷地と北陸地方を結ぶ西廻り海運が開かれ、多くの北国船が往来した藩政時代になり、幕府及び松前藩による蝦夷地経営の確立と共に、日本海々上交通は、北前船と呼ばれる交易船によって益々繁昌するようになると、弘前領に属する西海岸の各湊も当然のように重要視された。
 弘前藩で、領内の重要湊として四浦(深浦、鰺ヶ沢、十三、青森)を定めたが、この内、西津軽に位置するのが、深浦、鰺ヶ沢の両湊である。

 深浦湊は、中世安藤氏が十三湊を拠点に活躍した時代から、蝦夷地と日本海沿岸の各湊を結ぶ北国海運の重要な寄港地として利用された。
 当湊は、西津軽の最も南に位置し、北の行合崎と西の入前崎にいだかれた深い入り江は、北風に弱いと云う弱点があるものの、上方と松前航路、下北航路の分岐点として渡海する北前船の“風待ち湊”として天然の良湊を形成していた。「慶安2年道筋台帳」によると、湊の幅154間(約277m)奥行き200間(約360m)、水深8~9尋、北風を除き船がかりが良く、同湊から松前まで25里、男鹿まで35里の船旅であった。

 鰺ヶ沢湊は、湊としての機能を失いつつあった中世以来の十三湊に変わり、上方と弘前藩を結ぶ西廻り航路の拠点として、藩の設立当初から軍事、政治的な理由から重視されていた。弘前藩では蔵米を津軽一円の穀倉地帯から集荷したのち、川舟を使って岩木川を下り十三湊から鰺ヶ沢湊へ小廻りし回送された米は、鰺ヶ沢湊で藩船、雇船に積み換え、敦賀の湊から大津を経て大阪に送られた。
 寛文年間からは、新田開発と湊の整備が進み、御用湊として藩経済の上で重要な位置を占めるようになり、青森と並ぶ二大移出・入港の地位を確保するようになる。
 当時の鰺ヶ沢湊は西の弁天崎より中村川の河口に至る長さ3町、奥行き24間(約43.0m)の規模で深さは8~9尋、西南風が航海によく松前は海上15里、南風のとき出航した。(現鰺ヶ沢漁港)

 藩政時代、西津軽を通過する主要街道は西浜街道(現国道101号及び主要地方道弘前鯵ヶ沢線)、十三街道(現主要地方道鰺ヶ沢蟹田線)及び百沢街道(現主要地方道弘前岳鯵ヶ沢線)の三街道があった。この内、西浜街道は、中世以来の幹線道路としての十三街道と鰺ヶ沢で結びついており、弘前から鰺ヶ沢湊、深浦湊、大間越口を経て隣国秋田領へ通じる重要街道であった。藩政時代の初期には弘前藩、松前藩が参勤交代の通路として使用したほか、幕府の巡見使も通過している。藩の御用湊としての深浦、鰺ヶ沢はこの西浜街道により、弘前と結ばれ北前船交易による物資の移出入街道として利用されたが、寛文5年(1665年)以降は碇ヶ関口を通過する羽州街道が重視されるようになると、次第にローカル的な地位に変わっていった。

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西北地域県民局地域整備部鯵ヶ沢道路河川事業所
電話:0173-72-3135  FAX:0173-72-3114

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