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更新日付:2024年2月19日 地域交通・連携課
AOMORI LIFESHIFT人財インタビュー19 斎藤 勝 さん
ほぼ寝たきりの毎日から、82歳でバッグ職人に。
好きな道で、若者の力を借りれば、起業に年齢は関係ない。
1937年、三重県生まれ。1955年高校の電気科卒業後、家業のラジオ店を継ぐ。1979年に電化製品の修理専門会社を開業するが、取引先とけんかして無職に。自ら設計したオゾン発生器の製造・販売、スナック経営など職を転々とし、2004年ごろから大病続きで70代はほぼ寝たきりの生活を送る。2019年、三女からミシンの修理を頼まれたのをきっかけに裁縫を始め、2020年7月、孫が作ったTwitter(現X)アカウント「G3sewing」で、がま口バッグ職人としてデビュー。著書に『あちこちガタが来てるけど 心は元気! 80代で見つけた 生きる幸せ』(KADOKAWA)
82歳で作り始めた「がま口バッグ」が、大ヒット!
元々は家業のラジオ店を経て電化製品の修理専門会社をやっていましたが、紆余曲折あり、68歳で大病をしてからはほぼ寝たきりでした。家族に迷惑をかけるばかりで生きる気力もなかった私が、今では自宅の作業スペースで毎朝7時からミシンに向かい、18時過ぎまで作業に没頭する毎日。人生、何が起こるかわかりません(笑)。
41歳で起業するも、取引先の方針に納得できず無職に
けれども、70年代半ばになると家電量販店の台頭で経営は厳しくなっていきました。そこで電気工事士の資格を持っていたし、技術に自信があったので41歳でラジオ店を廃業し、電化製品の修理専門会社を開業しました。大手スーパーと契約して家電の修理、配達、取り付けまでを請け負い、経営は順調でした。ただ開業3年目に大手スーパーとけんか別れしてしまいましてね。ぱたりと仕事がなくなってしまったのです。
無職となって数カ月は新聞配達のアルバイトで食いつないだものの、「このままではいけない」と独学でオゾン発生器の製造に挑戦して成功。商社と組んで販売を始めると全国各地で評判になり、「これで食っていける」と胸をなでおろしました。ところが、しばらくすると大手に仕事を奪われ、売り上げが低迷。その矢先、バブル経済が崩壊し、契約がすべてキャンセルに。やむなく53歳の時に事業を撤退し、その後はスナックなど飲食店の経営をしたのですが、借金がかさみ、57歳で店を畳みました。
68歳からは病気の連続。気力を失い、死ぬことばかり考えていた
子どもたちは無事に巣立ってくれたものの、60代後半から今度は立て続けに病気に。68歳のとき大腸憩室症で大腸を半分摘出し、大動脈乖離で意識不明に。ようやく退院したと思いきや胆石症や痛風を患い、糖尿病も発症。病気が原因でうつ病になり、家出や自殺未遂をしたこともありました。
年金は月3万円しかないのに、医療費だけでその倍は必要。お金は子どもたちが出してくれましたが、自分が生きているだけでみんなに迷惑がかかる。死にたい、死にたいとそればかり考えていました。
82歳で初めてミシンを踏み、「面白いやないか」と思った
このとき初めてミシンを触りましたが、修理は簡単であっという間にでき、動作確認のために縫い方を教えてもらったんですよ。糸巻きをセットして布に抑え金を下ろし、スイッチを入れて。そしたらバラバラだった布がピュッと縫えていくじゃないですか。「これは面白いやないか」と思いました。
それで、いろいろ作り出したわけです。最初は娘が「これなら簡単に作れるんちゃう?」と見せてくれた聖書カバー。私は機械をバラすのが好きで、何でもバラすんです。技術屋の本能なんでしょうね。すぐに聖書カバーを分解して仕組みをチェック。型紙も起こし、デビュー作を完成させました。
次はコースター、ポーチ、裏地つきポーチ、ファスナーつき財布と作ってみて、腕はめきめきと上達(笑)。それで挑戦したのが「がま口バッグ」でした。
孫の発案でTwitterデビュー、1か月で800件の注文が
「がま口バッグ」はカーブの縫い方や金具のつけ方が難し過ぎて、最初はとんでもない仕上がりに。娘に「下手」と言われ、落ち込みました。でも、私はやりかけたことを途中でやめるのが嫌いなんです。「上手になって、ぎゃふんと言わせてやる!」と職人魂に火がつきましてね、だんだんと売れるレベルの作品になっていきました。
そこで娘が、「少しでもお金になれば生活が潤い、明るい気持ちになれるのでは」と考えて、孫に相談してTwitterで作品の紹介をはじめてくれました。「G3sewing」のアカウントを作成して、私の姿もあわせて紹介したところ、大きな反応があり、全国から注文が舞い込むようになったのです。
2020年7月にTwitterデビューしたのですが、最初の1カ月で届いた注文は800件。私は「待ってくれる人に早く届けないと」という思いが強く、無理しがちだったんですが、妻と娘と何度も話し合い、受注や生産の体制を整備しました。孫たちも「おじいちゃんが効率よく作業できるように」と裁断や接着芯の貼りつけなど下準備を買って出てくれて、気づけば、チーム「G3sewing」ができていました。
最初のまとまった収入が入った時、真っ先に妻にほしいものを聞き、指輪をプレゼントしました。嬉しそうにしていましたね。月に数回は日帰りで温泉と外食を楽しむゆとりも生まれました。孫たちが生まれてこのかた生活が苦しくお年玉をあげることもできなかったんですが、今は孫にお小遣いをあげるのが一番の楽しみになりました。
家族がチームになって「G3sewing」をやる今が一番幸せ
病気でお金もなくて、死ぬことばかり考えていましたが、「G3sewing」を始めてからは朝起きるたびに今日は何を作ろうかとわくわくします。体のあちこちが痛くても、ミシンをかけていると何ともないんです。
私の励みはお客さんからの“ラブレター”。お客さんから「励まされました」というお手紙をいただくんですよ。私の方が励まされているのに、ありがたいですよね。だから、ひとりでも多くのお客さんにいいものを届けたいんです。そのために、健康管理も大切にするようになりました。事業継承も考えるようになり、現在では三女の夫が社長を務めてくれています。
ミシンに出合い、家族がチームになって「G3sewing」をやる今が一番幸せです。80歳を過ぎてこんな毎日がやってくるなんて思いませんでした。「好きなことはこんなに人を元気にするのかとびっくりした」と家族に言われますが、その通りだと思います。ミシンには82歳まで触ったこともなかったけれど、私はモノを作るのが好きですから。
好きなことを思い出すこと、若い人から学ぶことが大切
年齢を重ね、仕事を引退して生きがいを見失っている人も、音楽でも俳句でも何でもいいから、昔好きだったことを思い出して、やってみてほしいですね。
好きなことをやれば前向きになり、新しいことに挑戦する意欲が湧いてきます。すべてはそこからだと思います。ありがたいことに私はこの年である程度のお金を自分で稼げていますが、お金もうけを目的にミシンを始めたわけではありません。趣味が面白くなって、楽しいからやり続けてきただけです。お金は後からついてきました。
もうひとつ、大事にしているのは孫と仲良くすること。若い人たちは何でも知っていてすごいです。“G3sewing”も孫のアイデアがなければ成り立ちませんでした。第一、若い人と話すと、心が若返ります。少し前に、孫がお古のパソコンをくれましてね。パソコンなんて縁のないものと思っていましたが、やってみたら面白くて。今は両手でキーボードを打てるようになりました。85歳の今、新しいことを教わるのが楽しいです。