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更新日付:2008年7月1日 地域生活文化課

青森県民俗の風呂敷02「旧岩崎村の鹿島祭り」

大間越春日祭の準備 ~流すにはもったいない「春日丸」~    民俗部会担当 清野耕司

大間越
 青森県の南西端に位置する旧西津軽郡岩崎村の松神(まつかみ)・黒崎・大間越(おおまごし)地区(現深浦町)では、田植えが終わった6月上旬から7月上旬までの間に、それぞれに「鹿島祭り」(大間越では「春日祭り」とも)が行われます。県内では日本海側の秋田県境に近いこの地域にしか見られない行事です。木製の船に藁人形を乗せて担ぎ、太刀振りという踊りが先導して集落内を回り、最後に船を海に流すことで疫病や害虫などの災厄を祓い、村内安泰、大漁豊作を願う祭りです。今回は、今年(平成19年)の6月9日に行われた大間越地区の春日祭りの様子と、これらの行事の由来について紹介します。

写真は、大間越地区の概観(平成19年6月9日撮影)。

春日丸
 5月末ころから、「春日丸」と呼ばれる木の船や、「太刀振り」という踊りで用いる太刀棒(たちぼう)、太鼓の撥(ばち)を手作りするなど、祭りの準備にとりかかります。祭り前夜(6月8日)も地区の郷土芸能保存会のメンバーが青年会館に集まり、春日丸に人形を乗せたり、帆を張るなど、最後の仕上げに余念がありません。
 春日丸の本体は、シナノキ、ヤシノキ(サワグルミ)などの丸太を刳り抜き、弁財船(べざいせん)の形、つまり江戸時代の北前船を模して作ります。船の大きさは、長さが5尺6寸(約1.7メートル)、幅が1尺6寸(約0.5メートル)といわれています。
 帆柱には大きな帆をあげ、船首には下がりとして7本の縄がつき、この船に乗る7人の船乗り(人形)が遭難した時にこれにつかまるとも言われています。弁財船の特徴でもある、左右の船べりの垣立(かきたつ)も木の板に墨で格子の模様を描いてとりつけていますが、かつては竹で編んだそうです。
 このように艤装(ぎそう)など細部のディテールも本物に似せた精巧なもので、かつては大工さんや手慣れた先輩方によって作られていました。
 名人といわれた古老が亡くなってからも、後を引き継いだ大工さんが本体を作り、郷土芸能保存会のメンバーが中心となって昔ながらに立派な春日丸が今年も完成しました。
 青年会館には、かつての名人が製作した春日丸が1艘、記念に保管されており、祭り前夜の春日丸の仕上げには、手本とされ、帆の張り方や人形の位置など入念にチェックしながら作業は進められました。人々の表情も真剣そのものです。
写真は、手本の春日丸を参考にした仕上げ作業(平成19年6月8日撮影)。

春日丸
 祭り当日の朝には、春日丸の錨(いかり)をイモサクと呼ばれる植物の茎を用いて作ります。イモサクとは土地の呼び名で、正式な和名はエゾニュウです。そして船尾にはアヤメの花が飾られます。
 春日丸の最後の準備と並行して、太刀振りの踊り手である小学生の化粧や着物の着付け、幟の用意や太鼓の皮の張り具合の調整、太刀棒に踊り手の名前を墨書きするなど本番に向けて祭りの準備も大詰めを迎えます。

写真は、春日丸の錨(いかり)(平成19年6月9日撮影)。

春日丸
 春日丸の船乗り達を紹介しましょう。船に乗せる人形は7体で、かつてはオオヤケと呼ばれる資産家が作ったそうですが、現在は地区内の班組織、全9班のうち毎年順繰りに7つの班の班長さんが1体ずつ作ります。体は藁で、頭部は桐の木を用い、目・耳・口・髪の毛などを墨書きして鉢巻をさせ、布で作った着物を着せます。
 この7人には、特に名前はないと言いますが、それぞれ舳先(へさき)に立つ見張り役や船体中央部の両側に立つ水夫、帆の前にどっしりと構える船頭、そして艫(とも)に立つ舵取りと役割分担があります。
 遭難した時に備え、小型の伝馬船(てんません)が積み込まれ、7人分の櫂と櫓までが用意周到に装備されています。

写真は、しっかりと舵を握る舵取りを写したもの(平成19年6月9日撮影)。

 春日丸の製作には、丸太の切り出しから数えると、かれこれ1か月近くもかかります。これを最終的に海に流してしまうのは、確かにもったいないとも考えられます。しかし、春日丸の製作には、それだけ地域の人々の思いが込められているのです。これが、手を抜いた雑な船であったならば、村落安泰、悪疫退散の願いは、到底かなわないのではないでしょうか。精巧な春日丸に、この祭りの神髄を見た気がします。

【閑話休題】ここで一つとっておきのお話しがあります。実は、筆者の前の勤務先である青森県立郷土館(総合博物館)の民俗展示室には、この大間越の春日丸が展示されています。今から20数年前、展示用に特別に作っていただいたものです。筆者がまだ勤務していた5年ほど前のことです。
 展示解説を担当する解説員の中に大変霊感の強い女性がおり、民俗担当の学芸員である私に真顔でこう言うのです。
 「民俗の展示室の春日丸に乗っている船乗り達が、長い航海ですっかり船酔いしてしまい、相当まいっています。何とかしてほしいと訴えています。」と。
 半信半疑ながらも、早速様子を見に行き、心なしか体の傾いていた7体それぞれの体勢を直しておきました。数日後、その解説員に、船乗り達の様子を尋ねてみると、「もう、大丈夫、大分楽になったそうです。」という返事が戻ってきたのです。民俗展示室は奥が深いです。

大間越春日祭り当日の様子をお伝えします。     民俗部会担当  清野耕司

鹿島祭り行列
 平成19年6月9日(土)、午前中にぱらついた雨も昼過ぎにはすっかり上がり、穏やかな祭り日和となりました。行事日は、『岩崎村史 下巻』によると「昭和25年ごろまでは、田植えに入るころ、大抵、5月10日の産土神の祭典の前日行っていたが、田植えが早くなって、5月10日は田植えの最中ということもあって、産土神の祭典が6月10日に変わったため、その前後の近い日曜日に行うように決めている」ということで、今年は6月10日の産土神(稲荷神社)の祭典が日曜日にあたったため、土曜日ではあるが前日の9日になったものです。
 青年会館で春日丸に灯明とお神酒をあげ、拝礼してから午後1時に行列が出発します。この拝礼をはじめ、行事全般に渡って神職の関与は見られません。
 行列の経路は、青年会館を出発し、集落の山側(東側)と北側の集落はずれをそれぞれ折り返して集落の中心部に戻り、漁港北側の砂浜が終点です。集落内をほぼ回ることになります。

写真は、山側へ向かう行列です(平成19年6月9日撮影 以下同)。

太刀振り
 行列はこの間、何ヶ所かのフナヤドで休憩しながら進みます。ヤドは、かつてはオオヤケと呼ばれる資産家が提供しましたが、現在では各班の班長宅がつとめます。班は9班まであり、今年は偶数の2・4・6・8班が担当し、計4ヶ所の休憩となりました。ちなみに去年は奇数班で計5ヶ所だったそうです。
 行列の今年の構成は、先頭がサキフリ(先振り)1人、次に太刀振りの小学生6人、大人6人の計12人、次に4人に担がれた春日丸、その後ろに囃子方がつきました。囃子は肩から掛けた太鼓が2人と笛が3人です。最後に「奉献流春日鹿嶋岡神社」と書かれた幟を1本ずつ掲げた軽トラックが2台続きます。春日丸の担ぎ役と、太鼓は適宜交替しながら進みます。
 サキフリが色紙を重ねて切った御幣を振り上げて、「アーラ、エンヤラ、エンヤラ、エンヤラ、ホーイ」と合図の掛け声を発すると、後ろの太刀振りの踊り手達も右手に持った太刀棒を高く挙げて、「エンヤラ、エンヤラ、エンヤラ、ホーイ」と応じます。これが出発の合図となって、次にサキフリが「ア、シッチョイ、シッチョイ、シッチョイナ」を繰り返しながら進み、それに合わせて太刀振りも太刀棒を地面につきながら進みます。この「ア、シッチョイ、…」を何回か(回数は特に決まっていないが、ほぼ10回以内)繰り返して進み、サキフリが「エイッ、ヤッ」と掛け声を発すると、太刀振りは2人1組となって、体を入れ替え交錯しながら太刀棒を強く2回打ち付け合います。これが太刀振りの所作の一区切りで、基本的にはこの繰り返しで行列は進んで行きます。
写真は、太刀棒を打ち付け合う太刀振りを撮影したものです。

太刀振り
 途中、沿道の各家から祝儀やお神酒が上がると、それを家の前の道路の中央付近に直に置き、サキフリの「アーラ、エンヤラ、エンヤラ、エンヤラ、ホーイ」の合図で「ア、シッチョイ、シッチョイ、シッチョイナ」を繰り返しながら、祝儀やお神酒の周囲を時計回りに3周します。また、フナヤドで休憩する時も、春日丸をヤドの玄関先などに下ろし、その周囲を同様に3周してから皆ヤドに入ります。いずれの場合も最後には、サキフリの「エイッ、ヤッ」で太刀棒を打ち付け合うのは一連の所作として同様です。
 ヤドでは、飲み物や煮しめ、刺身などの料理が行列の参加者に振る舞われます。家の外にいる見物の人々にも振る舞われ、私たちのような部外者にもヤドに入るよう盛んに勧めてくださいます。客観的な調査者たるべき私たちは、4ヶ所全てにお邪魔するのは図々しいので、1ヶ所だけお呼ばれしてしまいました。
写真は、ヤドの前で春日丸の周囲を3周する太刀振り。

春日丸
 午後4時30分ころ、行列が漁港北側の砂浜に到着し、祭りはいよいよクライマックスを迎えます。集落の北のはずれから軽トラックに乗って一足早く砂浜に到着していた春日丸の周囲を例によって、太刀振りが3周します。春日丸の舳先(へさき)のろうそくには火が灯されます。太刀振りの踊り手達は最後に太刀棒を海に放り投げて流し、春日丸は担ぎ手達によって海へ浮かべられます。この時、春日丸の舳先付近に供えられていたシトギ(米の粉に水を混ぜてこねてまとめた餅)が細かく分けられ、人々へ護符として配布されます。現在はシトギではなく、雲平(うんぺい=砂糖と上質なみじん粉とを混ぜて、水または山の芋でこね固めたもの)で、菓子屋に作ってもらいます。
 さて、若者2人が泳いで春日丸を流しますが、現在ではすぐに漁船に春日丸を引き上げて、さらに沖へ運んでから、今度は本当に海に流します。春日丸を乗せた船とそれを見届ける人たちを乗せた船の2艘で、約キロメートル沖合まで行き、2艘で春日丸を挟むようにして海に浮かべます。2艘の船は春日丸の周囲を時計回りに3周して大間越漁港に戻ります。

写真は、浜でいったん流される春日丸。

  • 春日丸
    沖で海に浮かべられる春日丸
  • 春日丸
    沖の本流にのる春日丸
 夜の6時前後には青年会館で反省会が始まります。かつて、青年団が中心となって行っていたころは、上がった祝儀やお神酒で、日を改め翌日などに反省会をしたそうです。青年団は昭和55年(1980)に解散しましたが、かつては青年団を中心とした若者の祭りだったのです。

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